2011年12月17日土曜日

ロシアのストリートチルドレン


前々回のボランティア講習で出された題材のひとつ。視聴後に「幸せとは?」についてのグループディスカッションを行う。答えは当然「決まったものはない」という、討議自体を目的とするワーク。私は、40代の方が2名、50代と60代の方が各々1名のグループだった。 「幸せか?」という点については、「不幸じゃない」「そもそも、偉そうに他人様の幸せを測れんよ」という形で早期終息、「あれほど物質的欠乏が厳しい中で、何故に子犬を養う気持ちになるのか?」という点に皆の興味は移っていった。そんな時、思い出したのが下の2つのお話。

ある夜のこと、一人の男性が訪ねてきて、「八人の子持ちのヒンズー教徒の家族が、このところ何も食べていません。食べるものがないのです。」と告げてくれました。

そこで私は、一食に十分なお米を持ってその家に行きました。そこには、目だけが飛び出している子どもたちの飢えた顔があり、その顔がすべてを物語っていました。

母親は私からお米を受け取ると、それを半分に分けて、家から出ていきました。暫くして戻ってきたので、「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねました。

「彼らもお腹を空かしているのです」という答えが返ってきました。

「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことで、そこにも同じく八人の子どもがおり、やはり食べるものがなかったのでした。

この母親はそのことを知っていて、僅かの米の一部を他人と分け合う愛と勇気を発揮したのでした。自分の家族が置かれている状況にもかかわらず、私が持っていった僅かの米を隣人と分け合うことの喜びを感じていたのです。

その喜びをこわしたくなかったので、私はその夜、それ以上の米を持って行くことはせず、その翌日、もう少し届けておきました。

マザー・テレサ 「愛と祈りのことば」より

私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。

マザー・テレサ 「愛と祈りのことば」より

2011年12月15日木曜日

郡上八幡、川飛び込み




岐阜県郡上八幡の子供たちには、吉田川への飛び込みという儀式があるそうです。小学5年生から中学1年生の間に土地の子供はこの儀式を通過するそうで、一人前の証のようなものとなっています。

いきなり飛び込める筈もないので、小さいころから技量に応じた高さから練習していきます。最初の練習の岩をイチリキと呼び、次はニリキ、サンリキはこの橋の約半分の6メートル程の高さです。サンリキを卒業したら、上流にある10メートルの高さの学校橋から飛び込み、最後はこの新橋からの飛び込みとなります。この高さからの飛び込みは大変危険で、実際に死者も出ています。子どもたちもこの最初の飛び込みには「死」が頭によぎるそうです。

学校の先生が指導にあたることもありますが、飛び込みの訓練・指導は主に子ども達の間で行われます。数十年前、大人による指導・監視体制をとったことがあるそうです。その結果は、子どもの習熟度の判定がはっきりできなかったり、段階に応じた指導がうまくできないなどの問題が続出し、ほとんどの子どもが儀式を卒業できないという結果に終わったそうです。それ以来、大人の監視での指導ではなく、元の子供たちのグループリーダーによるものに戻ったそうです。

この行事を地域の伝統として町全体で支援しています。親たちもこの儀式に深い理解を示し、子どもを応援します。2003年、死亡事故をうけ行政が飛び込みを禁止したことがありました。しかし、町民から「伝統の儀式を簡単にやめていいのか」との声が多く寄せられ「飛び込み行為は当事者の自己責任。行政としては規制しない」と一転したということもありました。



これは、地域共同体がいまだある稀有な例の一つと思います。教育や福祉など様々な分野で地域社会の力が期待される近年ですが、多くの地域において共同体は既に破壊されています。復活はムリですが、新構築も茨の道…。法の下の平等の世界で、新たに掟の世界をつくれるのでしょうかね?