前々回のボランティア講習で出された題材のひとつ。視聴後に「幸せとは?」についてのグループディスカッションを行う。答えは当然「決まったものはない」という、討議自体を目的とするワーク。私は、40代の方が2名、50代と60代の方が各々1名のグループだった。 「幸せか?」という点については、「不幸じゃない」「そもそも、偉そうに他人様の幸せを測れんよ」という形で早期終息、「あれほど物質的欠乏が厳しい中で、何故に子犬を養う気持ちになるのか?」という点に皆の興味は移っていった。そんな時、思い出したのが下の2つのお話。
ある夜のこと、一人の男性が訪ねてきて、「八人の子持ちのヒンズー教徒の家族が、このところ何も食べていません。食べるものがないのです。」と告げてくれました。
そこで私は、一食に十分なお米を持ってその家に行きました。そこには、目だけが飛び出している子どもたちの飢えた顔があり、その顔がすべてを物語っていました。
母親は私からお米を受け取ると、それを半分に分けて、家から出ていきました。暫くして戻ってきたので、「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねました。
「彼らもお腹を空かしているのです」という答えが返ってきました。
「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことで、そこにも同じく八人の子どもがおり、やはり食べるものがなかったのでした。
この母親はそのことを知っていて、僅かの米の一部を他人と分け合う愛と勇気を発揮したのでした。自分の家族が置かれている状況にもかかわらず、私が持っていった僅かの米を隣人と分け合うことの喜びを感じていたのです。
その喜びをこわしたくなかったので、私はその夜、それ以上の米を持って行くことはせず、その翌日、もう少し届けておきました。
そこで私は、一食に十分なお米を持ってその家に行きました。そこには、目だけが飛び出している子どもたちの飢えた顔があり、その顔がすべてを物語っていました。
母親は私からお米を受け取ると、それを半分に分けて、家から出ていきました。暫くして戻ってきたので、「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねました。
「彼らもお腹を空かしているのです」という答えが返ってきました。
「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことで、そこにも同じく八人の子どもがおり、やはり食べるものがなかったのでした。
この母親はそのことを知っていて、僅かの米の一部を他人と分け合う愛と勇気を発揮したのでした。自分の家族が置かれている状況にもかかわらず、私が持っていった僅かの米を隣人と分け合うことの喜びを感じていたのです。
その喜びをこわしたくなかったので、私はその夜、それ以上の米を持って行くことはせず、その翌日、もう少し届けておきました。
マザー・テレサ 「愛と祈りのことば」より
私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
マザー・テレサ 「愛と祈りのことば」より




